優しい気持ちを大切にしています

喧嘩が起こるとき

今回は喧嘩について書いていこうと思います。
皆さんは喧嘩をした事がありますか?
した事がある場合、その喧嘩は満足のいくものでしたか?
前向きな結果を得られましたか?
良かった喧嘩、気持ちよくない喧嘩どっちも経験していますか?
そうだと思います。
ではこの違いはなんなんでしょうか?
このことについて一緒に探索していきたいと思います。

満足のいく喧嘩と不満足な喧嘩の違い

満足のいく喧嘩とは?

喧嘩は基本的に終始自己主張を基本として行うのです。
ただし一方的な自己主張に固執した場合はただのその場限りの自己満であり、その喧嘩によって相手と良い結果、関係を得られる確率は低く、結果的には自身の真の満足感とは程遠いものとなると思います。
なぜならば私たちは自分の意見と相手の意見を理解し合うことを願っているからです。決してどちらかが言い負かしたと言う戦いの勝利を臨んではいないからです。求めているのは共感、理解、受容、愛であり、決してどちらかが勝つ勝利ではないのです。

ではどのような喧嘩が満足いくのでしょうか?
これは先ほども述べましたが、愛を感じられる喧嘩です。喧嘩というと激しい言い争いや殴り合いなどを連想してしまいますが、喧嘩の目的は自己主張でありそのお互いの主張、本音を理解し合う事を目的とした意見交換なんです。
これがしっかりと目的として認識されていれば罵倒する必要がないわけです。
ですが私たちは感情の反応に任せて罵倒したりするわけです。
ではそれはいったいなんで起こるのでしょうか?

罵倒する理由は?

争う理由はというと・・・これは自分自身の中に癒えていない感情がある為です。
例えば夫婦、カップルの間で以前に喧嘩をした場合や何かの会話中に傷ついた感情を感じた場合に、その感情に気がつかずまたはその感情を我慢した場合などがある場合その感情は傷ついたままとなり、自分が気がつき共感されるまで反応という形で現れてきます。
つまり”あの時傷ついた心”が再度自分自身に気が付いてもらおうとして、相手が言い放った何かしらの言葉に反応するわけです。
この傷ついた感情はその今喧嘩をしている相手から言われた事とは限りません。
幼少の頃の親、学生時代の友達などによるものもあります。
なぜかと癒えば感情には時という概念がありません。
傷ついた感情というもの、嬉しかった感情というものもその時のままだということです。
例えばすごい嬉しい思い出は昨日の事の様に感じる経験はありませんか?
傷ついた感情も一緒なんです。感情に時間はないのです。
話が若干逸れましたがここで気をつけたいのは、悪いのは誰一人いないという事です。
親、友達、パートナー、自分自身ももちろん、誰一人として悪くはないのです。
ただその言葉に、誰かの意識に傷ついた自分がいるという事だけなんです。
ただ傷ついた自分がいて、その自分が自分自身に気が付いて欲しいだけなんです。傷つけられた自分というのものは存在しないことをしっかりと認識しなければならないのです。
この認識がないと人は、犠牲者の椅子に座り苦しい人生を送ることになります。

では満足のいく喧嘩にするためにはどうすればいいのでしょうか?

それは”あの時、あの言葉に、あの意識に傷ついたんだ・・・悲しかったんだ・・・辛かったんだ・・・わかって欲しかったんだ・・・”って心の自分が今の自分自身に訴えかけていることに気がつく必要があります。
またこの気持ち、感情に気が付いて共感してあげるのです。
そしてその共感した気持ち、本音を相手に表現するのです。
“私はあの時〇〇という言葉に深く傷ついたんだ・・・”
もし謝って欲しければそれもそのまま言葉に出して伝えます。
“だから謝って欲しい・・・”
以上です。相手が謝るかどうか、相手の心に届くかどうかは問題ではありません。
ここから先は相手の自由にかかってきます。
つまり自分が出来るのはここまで。ここまでで満足の99%は達成しています。
残りの1%は相手の裁量ですが、大体自分の本心、傷ついた気持ちの共感と表現ができた時点で相手の心に影響を与え、謝るなり優しくなったりすると思います。そして相手も本心や自分軸の発言をして、その言葉があなたの心に届くはずです。
そして喧嘩していた二人はお互いに理解し合える事となります。
ただお互いに謝罪や優しさ、共感してくれることを期待はしないほうがいいと思います。
期待はしばしば支配性を帯びて自他を苦しめますから・・・
これが満足のいく喧嘩の方法です。

では不満足な喧嘩というのはどんな感じでしょうか?

不満足な喧嘩とは


満足のいく喧嘩とは、自分の自己主張と相手の自己主張の理解のし合いだと申しました。
そして不満足の喧嘩はこの自己主張の理解のし合という目的をあやふやにしたまま、今までの自分の感情の傷に気がつく事なくただ傷ついた心が感情的に何かしらの言葉、意識に反応し合い、益々傷を作り出しただ憎しみ、怒りをぶつけ合うことです。

そして傷つく喧嘩をしてより一層深く傷ついた心を抱えることになります。
勇気を持って傷ついた感情に気がつかない限り、ずーっと感情の反応奴隷として苦しく不満足な喧嘩を繰り返す事となるわけです。

やっぱり何事にも丁寧に自分自身の感情並びに相手の感情を感じることがとても大切なんですね。
喧嘩=自己主張の意見交換であり、理解であり結局は愛なんですね。

今の自分が何に感情的に反応し、そこから何に傷ついていて何に気がつきたいのかを探していく事が大切なんです。
それを知らせてくれるのが、喧嘩であることになるわけですが・・・
そうすると喧嘩も悪ではなく、自分の感情に気がつく手段として用いている自分に気がつく事もできるわけです。
よって喧嘩をして自己知る方法としての手段を手放すこともできるわけです。
喧嘩をする必要がなくなる訳です。
ただ自分の傷ついた感情に気がつくだけですから。
その時、長年喧嘩をしてきてくれたパートナーと別れることもあるかもしれませんね。
卒業と新たな出会いが待っているんですね。
もちろんそのまま仲良くなり益々楽しく仲良く共に生きていくことも出来る訳です。

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