優しい気持ちを大切にしています

お金と幸せの関係

お金について思う事

今回はお金について考えていきたいと思います。
お金は資本主義においてはとても大切な位置に君臨しています。
当たり前ですよね。資本=お金ですから。お金主義と言い換えてもいいかもしれません。
私たちはこのお金主義が当たり前の世の中に生を受けました。
そして今この資本、お金主義が日本に惨劇をもたらしています。
それが何かというと、拝金主義による貧富の格差です。
このお金を稼ぐ事に興味のある人は、表面的には幸せだと思います。

しかしお金を稼ぐ事に興味のない人、もしくは稼ぎ方を知らない人にはキツイ人生となる可能性が高いわけです。
なぜかと言うと、お金が絶対的な地位にある社会でお金がないと言うことは地位が低いという事となるからです。
つまりあのお家は金持ちだから、偉い。あっちのお家は貧乏だから価値がないと判断する社会となります。
お金の有無で人の価値も測ってしまう主義が資本主義の病理なわけです。
お金が力を持ってしまう病理的社会。

ではなぜ私たちはこの様な思考をする様になっていったのでしょうか?
なぜお金の価値=人の価値となってしまったのでしょうか?
個人の感性、優しさ、弱さ、感覚、趣味、知識、意識、芸術、、共感力、存在自体に価値を見出さなくなってしまったのでしょうか?

大きな理由はお金が便利だということがあると思います。
好きな洋服、家、車、ご飯を買えるし、旅行にだって好きに行ける。
友達、パートナー、親に素敵なプレゼントをしてあげられるから。

また自分がお金持ちだと多くの人が羨ましがったり寄ってきたり褒めてくれるからでしょうか?承認欲求を見たしやすいからでしょうか。

またお金が潤沢にあると税金やクレジットの支払いに心配をしなくてすむからでしょうか。心に心配がなくなり余裕が出来るからでしょうか。

ではお金がなくても(もしくはお金がベーシックインカム制度と同様に入ってくるとなると)、自由に旅行にも行けるし、好きな家、車、ご飯も買える、友達にもパートナーにも、親にも好きなものを買ってあげられるとしたら、お金の価値はどうなるでしょうか?

少し感じてみてください。潤沢なお金があると・・・・
お金が不足することは無くなるわけです。
随時お金が入ってくるので貯金と言う概念も必要なくなるわけです。


私が思う世界は各々が自分のしたいことをしたいだけする主義の世の中で生きていける世の中になると思うのです。
逆も然り、お金の為に嫌な事はしない主義の世の中で生きるわけです。

お金の価値=人の価値は成り立たなくなりますよね。
お金の価値=お金の価値以下でもなく以上でもない。
では人の価値は何で測り出すかというと・・・なんだと思いますか?

自分は何で人を判断するか?この人と一緒に居たいと思うのか?
多分人それぞれの理由があると思いますが、基本的には自分にとって喜ばしいものを感じられる人、愛を感じられる人だと思うのです。
はい、答えは愛です。
もっと踏み込んで言えば、自分が自分である由縁を気がつかせてくれる人だと思うのです。
例えば、好きな人に出会ったとします。
これは一緒にいると好きという感情が刺激されて生きる活力が湧くとか、幸せを感じるからだと思います。これは自分という個性がこの人を好きだという事に気がつけるわけです。つまり自分自身に出会えるわけです。
もう少し突っ込んで言いますと相手のことが好きな自分というより、相手に投影したそういう自分自身を自分が好きなわけです。
分かりますか?
例えば、Aさんの優しさに引かれたとした場合、その優しさを持っている自分自身を自分が好きなわけなんです。つまり持っていない(気が付いていない)自分の要素にはなかなか反応できないのです。本来の自分に気がつけていない状態が苦しいのです。
この自分自身(優しい自分が好きだと認識すること)に出会える瞬間に私たちは苦しさから解放され幸福を感じるわけです。
これはポジティブな感情だけではなく、ネガティブの側面でも感じられます。
例えば、大嫌いな人と(上司、結婚後のパートナーなど)と一緒にいる羽目になった場合でも、自分がこの人の大嫌いな部分をしっかりと認識する事で、自分が自分の嫌いな部分を嫌っている事に気がつけるわけです。
「あぁ私はこんな自分が嫌いだったんだ・・・憎んでいたんだなぁ」と。
例えば差別をする上司、暴言を吐くパートナーが嫌いなのは、差別する自分、暴言を吐く自分を断罪しているんです。そんな自分は許せない!愛される価値のない存在だと自分自身を四六時中責めているという事になるんです。
私はそんな暴言や差別はしないから関係ない?と思いますか?
そうだとしたら目の前の人の暴言差別を許せるはずです。
極論は全ての自分自身に気が付きたいのです。
だから四六時中目の前に多様な種類の人が存在してくれているのです。
そしてもう一歩踏み込みと、そんな自分でも愛されたいという願望が根底にあるわけです。
この深さまで理解すると全ての問題は比較的簡単に解決していきます。
いかなる問題も誰かに投影した自分自身に気がつくという事なんです。
一度気が付いた自分自身、つまり上記の例でいうと差別する自分、暴言を吐く自分でも愛されたい、無条件に愛されたい、受け入れられたいと言う根源的欲求に気がつく事で私たちは最高の幸福を感じます。これが愛です。
(傍若無人な自分を愛せ!と他者に強要する事ではありません、あくまでも自分自身が多種多様な自分自身を受け入れると言う事です、ご注意ください。)
そしてこの事実・真実に気がつく事でその問題を投影してくれた相手はもう必要なくなるわけです。
問題も、嫌な他者も必要なくなり幸せにまた一つなるわけです。
面白いのは、実際にその相手がいなくなる場合(離別)と瞬時にその人が全くの別人になってしまうかの如く変容してしまうかのどちらかです。
実際はその人が変わったと言うより、自分自身がその嫌いだった自分に気がつき許容する事で、その人の嫌な部分を理解できるようになりまた気にならなくなりその人の別の部分の良さ(自分の良さ)が見られる様になる為なのです。

つまり私たちは自分自身に気がつく為に他者を必ず必要とするわけです。
自分を含め如何なる多様な他者は大切な存在なんです。
私たちが大切にする主義(幸せ・幸福)は資本=お金じゃないんですね。
人・自分自身なんです。

大切なのは人道主義なんだと思うのです。ルネッサンスですね。
でも戻るんじゃくて進化するんです。
私たちはお金を生んで活用してきました。
お金がないと貧乏でバラック小屋に住んで、穴の空いた洋服を着て賞味期限の切れた食品を食べなければならないと思い込んでいるわけです。
だから必死にお金を稼ごうとしてきました。
しかし生きているだけでお金が入ってくるという事を知れば、人はわざわざお金を稼ごうとはしないわけですよね。
そうするともっと自分の個性、感性を使って人に喜んでもらいたいと思うわけです。
そうは到底思えないですか?
ゆっくりとグダグダしたいですか?
もっと思いっきり甘えたいですか?
そうですね、それもいいかも知れません。とことん甘えて、グダグダして、だらしなくする・・・最高ですね。笑
でも面白い事にそれらはあまり続かないわけです。なぜか不思議と・・
とことん甘えて、グダグダすると飽きるんです。
満足し出すんです。(この気持ちを否定していると長引きます。しかも甘えたり、グダグダする人が自分の目の前に出現します。要は甘える自分、グダグダしたい自分を拒否しているわけですから)
満足すると何かを始めたくなるわけです。
それこそ自分の中からウズウズすることが湧き出てきます。
例えば、活躍している人に、文句を言いたくなる、嫉妬する時なんかは正にこれ!来たり!って感じです。つまりそれやりたいんです!同じように輝きたいんです!これです!
自分も自分の感性を使って輝きたい!人の喜ぶ顔を見たいんです!
ありがとうって言われたいんです。
自分の好きな方法で感謝されたいんです!愛されたいんです。
そこにお金は関係ないんです。
じゃあお金は一体何?
お金は自分をどれだけ好きかを表す一つのバロメーター、自分のこと、他者のこと、自分が行なっている事をどれだけ好きかを表す一つのバロメーターなんです。自=他をどれだけ好きか、愛しているかのエネルギー量なんです。
本当に大切なのは多様な人達、他者、人類なんです。もちろん他者=自分ですから他者をいの一番に優先しよう!というお話ではないのです、ご留意くださいね!

でもね世の中にはずるくお金を稼いでいる人や生まれながらにお金持ちの家に生まれた人は自他を愛しているんでしょうか?または政治家?役人?上級国民の方々は自他を愛しているんでしょうか?
答えはどっちもいると言う事です。
自他を愛している方もいます。そうでない方もいます。
じゃあ、お金の定義=自他を愛するエネルギー量ではないと言う事?
そうではないんです。
愛のないお金の稼ぎ方もあります。愛のないお金持ちも沢山います。
でもこの愛のないお金には幸せもないんです。
愛のないお金持ちは簡単に識別できます。
まず言動が攻撃的、支配的、抑圧的、自己保身が強かったり、横柄だったりと、とにかく違和感だらけのものです。また容姿にも現れます。
例えば、怒っている様な、不平不満の顔つきだったり笑顔でも目の奥が笑っていないとか違和感を感じるものです。

まとめるとお金持ちには2種類の人種がいると言う事です。
これはお金持ちでは無くても同じです。
つまりお金は関係ないんです。(笑)
要は自分を、他者を愛する事が幸せで、その感謝の形でお金が使われていると言う事になるわけで、で、そのお金が=幸せを含んだお金であり、私たちが求めているお金との幸せな関係なんです。

話を人に戻すと・・・他者、人類がどれだけ大切かというお話をすると・・・

例えば限界集落で生活していた場合、人に出会う確率はとても低いですよね。
特に赤ちゃんなんて・・・ほぼいない。
たまたま旅行で遊びに来た赤ちゃん連れの旅行者に出会ったおジィおばぁが赤ちゃんを放っておけないのは、その存在自体に希少価値を感じるわけです。
その旅行者がお金持ちか貧乏かなんて気にしないわけですよね。
純粋に泣き声や笑い顔やプニプニした腕や足が愛おしいわけです。

つまり人に出会わない、出会えないことは絶望であり不幸なんです。
これは自分を見つけ出す手段を完全に喪失している状態なんです。
(もちろん仙人の様に瞑想で悟りを開く方もいるかもしれませんが・・)

ただ最近は人に会うことの意味合いが失われている様に感じます。
純粋な動機ではなく、仕事でどうしても会わねばならない、子供の付き合いで会う、親戚の付き合い、会えば仕事やら収入やら何しているやらの競い合いをすることになったり、町会などの義務的な要素による出会いが大半を占めている事で、出会いの純粋な喜びは薄れている様に感じます。
ですから人に会う純粋な喜びというよりは、大半は苦痛を感じるのだと思います。
まして大都市では隣家とは境界線でギスギスしたり狭い部屋に住んで街に出れば人が沢山いて、満員電車ではクレーマー気質の人が沢山いて、うんざりするという状況で人の存在に価値観を見出すなんて正直難しいと思います。

また心が引きこもりの方達(私も含め)は出会いを拒否するわけですが、これは他者と出会うことで色々な煩わしい人間関係を拒否している側面もありますが、根本的には自分自身に出会う事への無意識での拒否なんです。
否定的、ネガティブな自分、ダメだと思い込んでいる自分自身に出会いたくないんです。

この根本的な問題の要素を理解しない事には、私たちの諸問題は一向に解決されないばかりか、問題は山積し続けより複雑化するように感じられ混沌としている様に感じるわけです。つまり絶望感、無力感に苛まれるわけです。

お金を通して自分に気がつく事も可能です。
お金は流通であり手段であり、本来は自分、他者への愛のエネルギー量なわけです。

しかしお金についての認識が先ほど述べたお金=自分の価値となっている場合は、その認識を変えなければならないのです。
自分や他者をどれだけ好きか(質量)が=お金の量なんです。
ですからお金が不足しているのは、自分の事他者の事を愛し足りていないという事なんです。
自分、他者のどちらでも同じなので、愛せる方から愛してみてはいかがでしょうか?きっと愛が増えると同時にお金も増えていくと思います。

私たちは、見つめてきた主義(資本主義)をそろそろ変えるときにさしかかってきているのだという事です。

これだけの問題を抱えている社会をただ諦め傍観するのではなく、資本主義のいいところ、悪いところをしっかりと鑑み、新しい主義(人道主義)に転換していくことが大切なんだと思うのです。

資本主義で培った物質性技術の上に人道主義の精神性の智慧、技術を主とした主義、つまり人道のための資本主義を発展させていくのがこれからの道だと確信します。

まとめ

お金との幸せとの関係はお金に囚われる・拝金するでもなく、人道(他者)のために私個人が何をしてあげたいのか?何をする事で私が喜び、他者が喜ぶ事を自分自身の中から探し出し、それを提供する事。
その自己愛・他者愛の量・質によって増減するのだと思います。
例えば私はいくつかのアート表現をしていますが、その表現をまず自分自身が楽しむ事の質と量を高めます。そしてその表現によって他者が喜ぶ事を実感する。
それが例え一人でも、それがたった一人の家族、友達だとしても喜んでくれたらそれで最高の成功です!
そしてその量と質が継続によって上がって行けば、自ずとお金の量と質が上がっていきます。
自分の持っている情熱、興味、趣味などを自分の喜びの為に行い、そしてそれを他者に提供する。
これがお金が入る王道であり、楽で楽しい王道であり、お金との幸せの関係なんです。
ぜひ素敵なお金との関係を築いていきましょう!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です